昭和52年08月04日 朝の御理解



 御理解 第54節
 「徳のないうちは心配する、神徳を受ければ心配はない。」

 ご神前でお知らせ頂きましたのが、一丁のあの三味線ですね、三味線の一番上の所、ちょっとこれ響きすぎるな、少しちょっとあそこを、「天神」と言います、上の一番上の所ね、あの天神があれからサオがあって、ドウがあるわけです、その天神が取れておる所を頂いたんです。どう言う事だろうか。まぁ「天神」は、「天の神」と書いて「天神」と、まぁ私は頂いたんですけども、今日頂くこの54節が、徳を受けると言う事は、その言わば天神ですか、ね。
 天地金之神様がいつも、付き切りに付いておって下さる、という実感がある人のことを、私は御神徳を受けておる人という風に思います。それが感じる感じないは別として、天地の親神様が、それが「信心はなくてもおかげはやってある」と仰せられるぐらいですから、いつも神様が付きっ切りでおありになる、いや神様のいうならそういう働きの中に私共があることは事実なんですけれども、ね。神様が離れなさると言う事はないのですけれども、自分自身が神様を離しておるのです。ね。
 なら例えば極端に申しますと、もう自分が道ならぬ事をしておると致しましょうか、ね、自分のような者に神様がおかげを下さるはずがないという思い、そう言う様な思いがするでしょうね、自分はこんなに根性が悪い、自分はこんなにちょっとした事に腹が立つ、という時にはもうすでに神様を離しておる時であり、言うならば天神が離れておる時だと思うです。実際はこの神様は離れなさる訳にはいかん。
 「神は天地の守じゃから」と仰せられるように、天地を守してござるのですから、小天地の私共もその中にあるはずなんだ、ね、神様から守をして頂いておっても、ね、守って頂いていないような、自分で言うならおかげの頂けない世界に入ってしまうわけ、ね、一生懸命に神様に打ち込んで、一生懸命の心行をでもまあ、させて頂いておる時には心が豊かです、なんとなしに神様で一杯充実しているです、神様が必ずおかげにして下さるという信念もだんだん頂けるです。
 例えば自分の思いが、なるならないは別として、ね、神様のお働きの中にある事だからという、まぁ信心の度胸がしっかり座ってくるです、神様一心に神様に心が向いておる時には、ね、神様が付いてござるんだけど。付いて頂いておるその神様を愈々自分ではっきり、こう頂いておる時です、ね、そういう神様がいつも自分の心の中に宿って下さってあり、そういう言うならば感じが心配がないと言う事。
 「徳のない間は心配をする、身に徳を受ければ心配はない」と仰せられる、だからその心配はないという世界に私共が住まわせてもらう、それを喜びの世界とも安心の世界ともまぁ言うわけなんです。そういう世界を目指していくわけ、ね。なら例えば私共でもここで御取次をさせて頂いて思う事はです、もう本当に心配にもならない事を本当に死ぬほどに心配しておる人がある、神様にあんたお礼申し上げなならんじゃんの、と言うような事に腹を立てておる人がある。
 それだけ違うわけですね。だからその方達が腹を立てたり、心配したりしておるような事は、心配にはならない。けれどもそこには私には私の矢張り心配があったり、私には私の腹立ちがあると言う事です。だからおそらくこれは生涯、私共はこれが続く事だろうと思うです。言うならば、心配のない世界がだんだん広がって行くので限りがないわけです、ね、腹も立つ世界がなくなってくると。
 その世界が段々広がってくると言う事です、ね。まぁ言うならば子供の心配と大人の心配が違うようなもんじゃないでしょうかね。子供が大事と思うておる物と、大人が大事に思うておる物との相違点だと思うです、だから成長すれば成長するで、矢張り大事なもの、又は有難いと思う物も内容も変わってくるんです、ね。私共はいつもその自分のその心というものをです、だんだん、はぁ自分もおかげ頂いたものだなぁと。
 信心がない時よりも、こんな問題が起こったらそぉりゃ心配で、夜も眠れん事もあろうけれども、信心頂い取るからおかげで、心配どころか返って神様にお礼を申し上げておるといったような境地がだんだんすっきりと、しかもそれが大きく豊かになって行くわけ、それが私は信心を頂いている者の、まぁ一つの楽しみだと思うです、成程こういう生き方で行く事が、生神を目指す事だろうな、と分かてくるわけです、ね。自分の一つの自我意識と言った様なものが段々無くなってくる。
 あの熊谷さんの、お導きをされたあの、かませさんというお方、あの初めの話じゃないですけれども、「確かに不平不足とか腹立ちと言う様なものは、人から教えてもらわんでん、習わんでん身に付いとるけれども。喜ばせて頂くという道は教えてもらわな分からん」と言う事を、おかげの泉を読まして頂きながら気付いたと。「これは私のような者でも信心さしてもらわなきゃいけん、喜びの道を教えてもらわなきゃいけんと思うた」と言うようにね、信心とはそういう喜びの道。
 心配のない言うならば安心の道を教えて頂くのである。ね。と言う事は自分の自我意識が段々影を薄めてくる。段々とれてくると言う事なんです。昨日は梅の実会でしたから、午後から松村さん所の霊祭がございましたので。私が暫くお話をしてすぐ霊祭の為に立たしてもらいまして。まぁこんな事を私はお話させて頂いた。先日聞いておったけれども見たのは初めてしたけども。長男の一番下の子が一恵っち言います。まだ100日余りの子供ですが家内があの一恵を抱いとる時には。
 あの光昭の子供ですたいね、子ですこれがもぉとっても可愛がるです。あの抱かれておっても「一恵ちゃん一恵ちゃん」っち頭を撫でて可愛がっていますが。所があの丁度あの二番目のあの。恵城が抱かれますともうそれはとてもやかましかっち。言いよった。私丁度先日2・3日前でした。でその恵城が何かおばあちゃんに抱かれとる、そしたらもう後から行ってから。もう泣きながらですね。その婆ちゃんに抱かれちゃならん」っち言うてやかましく言うんです。
 で「あんたばあちゃんがおんぶしとるけんよかじゃんの」っち言うばってんその前に抱かれとる恵城が。もう憎たらしゅうしてこたえんで。もうひっぱたり蹴ったりしてから「のけ」って言うわけなんですよね。本当にまぁちょっと人間の心の中には不思議な心が、もう教えなくてもちゃんと募っていくのだ。宿っていくのだなと思いましたよ、ね。あれがね自分よりも小さい者の場合は、もう「一恵ちゃん一恵ちゃん」と言うてその、まぁ自分が抱かれとって。
 自分が下りてまでも一恵ちゃんにお婆ちゃんを、もうやるわけですけども。それが自分の年上の兄ちゃんであったら。許されないという訳なんです。ね。私共が本当に難儀、まぁ貧乏しておる時には。本当に皆さんが親切でしたね。もう本当に涙の出るように親切でした、皆さん。所が段々おかげを頂いて参りましてからはね。その親切であった人達が非常に冷淡になって、冷たくなって意地悪をするようになりましたね。不思議なもんですよ、ね。難儀をしておる時は皆が同情をします。
 けれどもそれが今度は、まぁ日の出のいきよいで、その人が例えば成功していったり。金がでけていったりすると「はぁあれだんがあんたもとは、私共があの米やったりお金貸したりやったりしよったっちゃけん」っち言うちから、もうそれをおろすようなね、ことを言わねばおられないような心が人間の心の中にあるんです。だから本当に皆さんから私が、あぁ「大坪さん大坪さん」と言われるためには、私が難儀をしておるなら皆から愛されるだろうけれどもね。
 私が難儀をせんごつなったら、言うならその時分に親切にしておって下さった人達が、かえって反対にですね、妙な目で見られるようになるんだ、こっちは御恩を忘れとるだんじゃない、けれども向こうは、あぁあれたちがと言う様な見方をされる様になる、これはもう誰しもの心の中にそういう心がある。ね。これはまだ私共が福岡で豊美と勝彦と、愛子がまだ今の泰子ぐらいの時分でした、。
 る時町に出らして頂いて、その時分は甘いものが無い時分でしたけれども、ぜんざいを売っておる店があるというので、そこの店に寄らしてもらって、あたくしと家内と豊美と勝彦とですから四杯、家内は「もう愛子は私と一緒に食べるけんよか」っち言うちから、四杯とりました、それでその愛子に家内がこうやって口に入れてやるとですけども、絶対口をこうつむってから食べんのですよ、まだようやく誕生前ぐらいな子供です、ね、誕生はちょっと過ぎとりましたでしょうか。
 それでこれはあの「愛子も一人前いると言いよるとかもしれんばい」(笑い)と言うて一人前とらせて頂いたらさっさと食べるとですけどね、もうお母さんと二人一緒には食べんっち言う訳、まあ今でんその話はする事ですけどね、まぁだそうようやく一つになったかならんような子供がです、ね、お母さんとこうやって一緒には食べん、もう兄ちゃんやら姉ちゃん達もしとる、一人ずつこうやって頂いとるから、自分も一人前貰わん、貰わんなら食べんっち言うとこでしょう。
 食べるごとなかっちゃろうかっち思う、「いぃんやそうじゃなかばい、こりゃ自分も一人前とってもらいたいとばい」っち言うてとりましたらね、さっさ食べるとですから(半笑い)、ね、人間のその欲というものはまぁだ、そういうそのなんじゃかんじゃ分からないような子供にでも、はっきりしておると言う事です、それが段々段々信心が無いなら死ぬまで育っていくのですから、なるほどコンニャクばばぁになったり、がんこおやじになるはずだと思いますよ。本当うん。
 信心とはねそういうその「自我意識」というものに、取り組ませてもらう、いわゆる人間心から神心に進ませて頂く、それには自分の自我意識というものを放らなければならん、それを教祖は「我情だ我欲だ」と言っておられます。ね。自分の我情がとれていく、自分な、ね、例えば愛子で言うならば、ね、与えられる例えばですスプーンで食べさしてもらえるそのぜんざいを、有難く頂くというのではなくて、ね、ちょこっとでん食べんち、一人前でももらわにゃ、あぁ誰が食ぶるかっち言う風にですねしとること。
 一恵が抱かれとるのならかわゆうて応えんけれども、それがちょっと自分より歳の上になる所の恵城が抱かれておると、腹ん立ってくる。不思議な事ですけれどもそういう心がお互いの中に言うならば内在しておるです、自分で気がつかないそして何かの時にほっとそれが出てくるので、自分でも驚くような事がございます、ですからそれを教えの鏡にてらして、言うならばそうした我情を我欲を、除かして頂く稽古をしていくのが信心です。ねですからなるほど。
 腹が立たん様になるはずだ、心配が段々少なくなっていくはずだ、と思いますね、しかもそれがすっきりと、我情我欲がとれた時に、「わが身は神徳の中にある」言うならば、天神とサオと胴が一つになっておる時である、そこから稽古次第では、どういう良い音色でも、出せれるようなおかげが頂けるのです。肝心要の天神が離れてござる、いや離れてござるのじゃない自分が離しておる、自分が自我意識が出たり、言うならば我情が出る時我欲が出る時には、もうすでに神様を取り外しておる時である。
 そういう意味でです私共が拝みはおるしよると言うだけではなくてです、例えば今お話しました、私共が本当に難儀しておる時に、本当に涙の出る様に親切をして頂いた方達というのは、みんな信心のある方達なんですよ、もうそれも信心を大変進めた方達ばっかりなんですね、所が私の所で人が助かる様になり私が段々おかげを頂いてくるとね、信心があってもそういう見方しかでけん様なお粗末な心である人間という物がです、なぜなのか?と言うと言うならば、そういう我情我欲のためなんだと言う事です。ね。
 あの時にああいう、難儀な所を通りござったが、あの時もまぁ色々助けてあげたが、あっちが一人前になってどんどん成功していきなさる、話を聞いただけでも嬉しいなぁ、という心がもうすでにだから神心です。ね。だから信心もただ「しとります」と言うのではなくて、その我情に我欲に本気で取り組まなければ、いけないのだ、と言う事。昨日熊本の松村さん所の霊祭でしたが、信心のないおじさんおばさん従兄弟達という方が十五名みえました。熊本から。
 そこで盛大なお祭りさせて頂いたんですけれども、神様にお礼を申させて頂いておったら頂きます事がね、あの玉串を玉串を次から次とこう先生方に渡していくんですね、それが、次に渡す先生がこうやってあの、装束をこう捲くっておんなさる、次には何かばこうやってほどいとんなさる、その次々渡っていくにしたがって、その装束が乱れていく姿を頂いたんです信心もね、信心とはこうだとか、金光様の信心とはこう、例えばそれが形式化していくと言う事。
 で次に頂いたのは、あの霊様が骸骨化してござるその霊様が、段々あぁした熱心な信心によって、その骸骨のような霊様が血が出、血が通う様になり肉が出けていく様子を頂いたんです。皆さんとこの霊様達でも骸骨化してござるかも知れませんよ。うん。とにかく生きた働き生きた言うならば、お取次を頂かなければ、だからなら仏教やらキリスト教やらっち言うのはもう、骸骨化した宗教だと教えだけは立派に沢山あるけれども、その教えが生きた働きをしないんだと。
 昨日から私正教先生と話した事でしたけど、ええ合楽にはもう奇跡という物はない、今まで奇跡と言うておったものは当然のことだ当たり前のことだと、だから合楽には奇跡という言葉を使う、丁度合楽だよりのあの奇跡シリーズが、今月で終わりなんですよ(笑い)ところでその、なら昨日の御理解の中にも頂いておりますように、合楽には奇跡はない、今まで奇跡と言うておったのは、ね、不思議と思うておったのは、ね、言うならば信心が言わば出来れば、ね。
 昨日の御理解はそこん所を、末永先生と、宮崎のアミさんの例を取りましたがね、言うなら合楽理念と言うならば、アミさんの合楽魂とこう言われる、そこにそれこそね、もう本当に無から有が生じる様な、働きやおかげが頂けておると言う事は、もう末永さんの場合にもアミさんの場合にも、もうそれは奇跡的なおかげですねじゃなくて、もう当然の事だ当たり前だと、親先生をそれほどに頂くならば、ね、合楽理念によるほかにはないと、合楽理念を本気で頂くならばです、ね。
 盲が目が開き、チンバが立つぐらいな事はもう奇跡じゃないんだと、当然だ当たり前だと、その思い込みが愈々でけてる所に、そういう言うならば奇跡のと、思われるようなおかげが頂けれるんだけれども、それを私共は奇跡と言うてきた、成程教祖様はもう前々からちゃんと言うちゃる、「信心してみかげのあるのを不思議とは言うまじきものぞ」と、「信心してみかげのない時こそが不思議だ」と仰っておられる、ね、奇跡が起こる当たり前なんだ、だからそれは奇跡じゃないんだ、当然な事なんだ。
 もし奇跡毎日毎日が不思議で不思議で、私共は毎日毎日が不思議で不思議でたまらん世界に住んでいるです、ね、もうそれは本当に不思議な不思議な世界です、信心によるおかげの世界というのは、ね、昨日も申しましたよ、お話しました高山さんの話じゃないけど、本当にこんなに見やすい事をおろそかにしておった、本当に人全てが神の氏子として見るならば成程人間の、自分に関係のある人達、会う人達全てを拝まにゃいけない、神様なんだからと、竹内先生の話を聞いてそう気付かれてから以来。
 かっ言わば人を拝むと言う事を実行しておられる、所がねほっと気がつかせて頂いたら「もうちょっとの時間に十人もの人に会っとるけれども、一人も拝んでなかったことに気付かせて頂いて改めて十人ひとからげにして拝んだ」とこう言うわけなんです、それからは次々に会う人達を、もう外しちゃない心行とはそれなんです外しちゃならんのです、もう外したら心行はないです、ね、絶えず自分の心の中にしん言うならば、天神様が付ききりに付いてござるです。
 ですから一の糸、または二の糸、三の糸、にあたれば、一の糸の音がする二の糸の音がする、三の糸の音がする、それをつぼを押さえていくならば、一つの素晴らしいリズムが流れてくるんですと。帰らせて頂いてなんかしよったら、上からなんか板張りに、チャランと落てたそうですもん、なんじゃろかと思ってこうみよった所が、丁度親先生一年前にね、娘があの金のネックレスをくれとったと、もうお母さんには勿体なかと。
 けども大事にしなさいと言うて、それこそ大事にしとったけれども、何時の間にか無くなっとったと、もうどげん探しても探しても無い、これは娘に言い訳が無いわけです。これも黙って、丁度一年経ったら、その上からねそれが落ちてきた「あら!一年前に無くなったネックレスが出てきた」と「はぁこれこそが、娘がくれたんじゃない、神様から頂いたんだ」と感動しておられます。ね
 だから例えば人を拝むと言う様な事なんかがね、そげなん馬鹿馬鹿しいそげなん面倒くさいことせんでん、風呂に入ったら石鹸ばこうせんならん、便所に行ったらトイレットペーパーこうせんならん、上がり口では下駄ば揃えてこんならん。こうせなならんのじゃない、そうしなければおられないのが心行だと言う事なんです。だからその心行の向こうにはもう、言うならば神様が下さるおかげの世界あるのだと。
 「本当に親先生もう、私は今日は驚きましたて、もうこれだけ一生懸命人を拝むと言う事にやっぱなんか神様は早速おかげの世界を示して下さる」と言うてお届けがあったんです。ねですから成そうと思えば、もうそげなことよりか、まっちっとむつかしか信心を覚えると言った様な事ではなくて、そういう所から有難いものが交流してくるような、その有難いという心で、段々難しい所にも入っていけれる信心を頂かなければいけない。それをならどう言う事に。
 信心の稽古をしていくかと言う事はどう言う事になるかというと、合楽理念を段々マスターしてそれを行じていきよると何時の間に、この自我意識がとれただろうかという様に、とれていく薄うなっていく、自分で驚くばかりです、ほんに以前の私ならそぉりゃこれは腹ん立つ事じゃろうばってん、腹ん立つどころかかえって今では涙の流れるごと有難いというのがそれなんです。ね。我情がとれていきよる、我欲がとれていきよる、そこには「わが身は神徳の中に生かされてあるなぁ」という実感がです。
 いつも天神様が付いておって下さるのだけれども、こちらがこちらの心で神様を外しておる、それではおかげにはならんと言う事でございます。身に徳を受ければ心配はない、けれども、私共が生涯恐らくは、私にも腹立ちがあるでしょう、又は心配が尽きない事でしょう、けれどももうその時の腹立ちというのは、ね、その時の心配というのはです、ね、それこそ神様がなされる様な心配であり、神様が思いなさるであろうと言う様な腹立ちに、言わば高度化した心配ね。
 だから一生私共がです、そういう信心を進めて行ってです、初めてあの世に行って開けてみて分かる事は、「はぁあれがお徳であったな」と、安心の霊喜びの霊としておかげが頂かれるのです。ね。信心が少しこうしよんなら、言うならばお榊玉串ですね、お榊を次から次ぎにこう渡していくうちに、その渡していく言うならば装束を付けておるという先生方の事でしょうが、言うならば初代の時には生き生きとした血の通うた信心が、ね、それを確かに受け渡していく。
 間違いない榊の木ですけれども、神の木ですけれども受けておる側が、こうやって腕まくっていくようになっていく段々、ね、受けてる側がね、それを言うならば簡素化していく、簡単に頂くようになるです。ね。御祭りなんかでも、もうこの頃は暑いから汗の出るけんで、もう神饌はせんという教会は多くなったです、もうちゃんとしちゃる、ね、これは不思議な事です、そう言う事は問題なからろうごと有りますけれども、ね、こちらが神様を簡単に扱うと、こちらも簡単に扱われるごつなるです。
 丁重にあつこうていきゃ神様がこちらを丁重にあつこうて下さるです。ね。信心神様は一つも変わらん、受けて行く者がそれを、段々ろくそうにしていくと言う事、だからそう言う事に枯れ果てた宗教というのが、ね、これはならキリスト教仏教だけじゃない、現金光教の中にもそう言う様な傾向が非常に強くなったと言う事であります。言うなら合楽では奇跡的なおかげというものは、もう奇跡という言葉は使わない、ね、生きた信心をするならそういうのは当然な事だと。
 信心する者とせん者は親のある子とない子ほど違うと仰る、違いなのだその違いが無くなってきたとても、ね、医者にかからずに病人が助かったとか、ね、人に頼まずにそれこそ無から有が生じるようなおかげと言った様なものは、もう金光教の中にはなかとさえ、言う具合の人が沢山あると言う事。先日からもえらい先生がみえてから、ね、ビリグイから来とる手紙を見せました時、4~5通の手紙を見せましたけども、パラパラパラっとこうやってしただけで、読みもさせらんじゃった。
 とてもそげなんこつがあるはずがなか、金光教ではそげなん信心、そげなおかげは頂かれん、と(笑いながら)私は、決めとんなさるとではなかじゃろか、一通の手紙どん読ましたら、とても、本当に金光様の御信者ならば、感動せずにはおれない事が全文に溢れておるんですけれども、生きた神様の働きがその手紙の中に溢れておるんですけれども、それを、言わば、紐解いてみろうともしないほどしに、私は金光教の信心も骸骨化して行きよるとこう思います。
 これに私は血を入れこれに肉を付けて行く、言わば合楽にそういう使命がある、ね、奇跡という言葉すらも無くなって行く、ほどしのおかげいや当然の事としてのおかげとしていく、本当に神様の御都合ちゃぁ、これは合楽が進んでいきよる証拠じゃあるけれども、あの奇跡シリーズがもし、あの今月で終わりになるんです、あれが終わりになる前だったら、なんかちぐはぐになるですねぇ、もう奇跡シリーズがもうちょっと可笑しい事になって来るんです、今月から私が「奇跡はない」と言いよるんですから、ね。
 これは合楽の信心が、いわゆる一歩また前進することになるのです、そして教祖の仰る、ね、「信心しておかげを受けるのは不思議じゃない、信心しておかげを受けんならそれの方が不思議なことじゃ」という、その不思議な所に取り組んでいないのです、ね、内が一つも信者が助からん、どういう訳じゃろうか?と、そこに不思議を感じるような、教会であり先生であるならば、そこからですおかげが頂かれるですまた、けれどもそのおかげの頂かれんとがもう当たり前のようになってしまっとる。
 これではもう愈々、ね、血も肉も取れてしまって、言うならば形式的宗教に脱してしまうでしょう、ね、どんなに形式が素晴らしくでけても、内容に血がない血が通うていない、肉がついていないとするならば、もうそれは死んだ宗教であります、合楽では言うならば「徳のない間は心配をする、徳を受ければ心配はない」心配はあるけれどもその心配の内容が、非常に高度化していっておるという、合楽の皆さんはそこを、身に付けていっておられると言う事は、ね、
 愈々御神徳の世界に入っていけれる、と言う事であります。ね。「徳のない間は心配する」、はぁ自分には徳がない証拠には、こんな事がこんなに心配になるというのが自分の信心の一つのバロメーターにもなるものですから、ね、けれどもですなら一年前の私ならば、こげなこんな事があったら不安であったり、腹が立ったりしただろうけれども、一年後の今日私は、それが不安でもない心配でもない。
 けれども心配が切れたのではない、もっと高度の言うなら子供の時に心配はし、平気でおっただろうけれどもね、なら子供がね、生活のための心配をする子供は無いでしょうもん、ね、さぁ自分が家の中心にでもならなければならんという、いわゆる生活が掛かってくるとその事が心配になってくる、高度化した心配になるです、ね、と言うように段々恐らく私共には一生涯心配はあるでしょう。
 心配は無いと言うとくのじゃいけんでしょう、けれどもそれが言うならば、高度化した心配、そして振り返ってみて、「ははぁこれが徳を受けて行く道だな」ね、「これがあの世に持っていけれるもんだな」という風にです分かっていくようなおかげを頂かにゃならん。今もし合楽で「はぁぁ私は信心しよるけんいっちょん心配なか」ともし言う人があるなら、それはあまりもの信心だと思うですね。
   どうぞ